「必ず親のどちらかが子供のそばにいてほしい、いてあげるべきだ」

父は外で働く厳しい人、母は家にいて優しい人。いつもそばに家族がいた経験を持つ水谷さんは、男女の役割分担以上に、親の役割を重視していました。

企画説明

どうすれば私たちは他者への想像力をもう一度取り戻し、異なる他者と対話をすることができるでしょうか。私は長い間それについて考えてきましたが、いまひとつの仮説を持っています。それは、意見や主張の背景にある、その人の物語を共有することです。

理解できない、異常な、よくわからない人として否定しあうのではなく、むしろどのような経験が、その意見や主張を生じせしめたのかを尋ねることから始めたいと思うのです。「なぜこんな考えを持つのだ、それは間違っている!」という姿勢ではなく、「なぜそのように考えたのだろう。この人はどんな経験をしてきたのだろう?」という姿勢で、様々な対立を捉え直したいのです。

同性愛者を非難する人、出生前診断を肯定する人、外国人への生活保護に反対する人、いきすぎたフェミニズムを攻撃する人、天皇制を廃そうとする人、公人の靖国参拝に賛成する人、育休・産休制度を進めたい人、様々な人たちの「声」を取り上げ、その主張や意見以上に、その物語を尋ねる旅をしていきます。

(ステートメント全文はこちらから)

「3歳までは母親の手「だけで」育てるべきだというなら、何のために両親2人いる必要があるのか」

ーーSNSでの多様性に関する議論を見聞きしたり、あるいはポリティカルコンパスに答えていると様々な感情が惹起されると思います。特に印象に残っているものを教えていただけますか。

子供は3歳まで母親の手で育てるべきという質問です。これを見たときに面白いというか、なんでこの質問するのかが気になったんです。3歳まで母親「だけの手」で育てるべきとする意識を持ってる人が多いんだとすると、違和感がありました。

ーーどういう違和感でしょうか。

父親と母親が両方ともいる家庭で育ったというのもあると思いますが、3歳までは母親の手「だけで」育てるべきだというなら、何のために両親2人いる必要があるのかということですよね。3歳までって、詳しく知っているわけではないですが、自覚が目覚めるまでに無意識に親を真似する時期だと聞いたことがあります。

男の子が異性であるお母さんだけを見て育ったり、女の子が同性であるお母さんだけを見て育って異性の人がどういう行動を取るのかを見ないで育つのは、何か将来的に成長したときに弊害が起こるんじゃないのかなって思うんですよね。

他にも、例えばベビーシッターに預けるというのも理想ではないなと思います。子供は実の両親が揃った家庭で育てるのが理想である、というのは自分の意見として持っています。

ーー子育てに関していまお話しいただいたご自身の意見のほかに、この世の中にはどんな意見があると思われますか。

昔は母親が家に居て子供の面倒を見るのは当然、または少なくとも一般的だったと思いますが、現代社会では女性も社会進出をしているというふうに、社会の在り方が変わりつつあります。なので、女性からしたら、仕事をしつつ子供の世話までしなきゃいけないっていうのは古い考えだ、と思われる方もいるかもしれないとは思います。

ーー出産直後から保育園に子供を預けられるようにすれば職場復帰のハードルも下がって良いことだ、という議論もありますよね。

そういう議論もよく聞きますが、現実には、保育園などの充実具合とは全く無関係に、そもそも子供を持つことに消極的な女性が多いという印象もあります。私はアメリカに留学したことがあるんですが、私と同年代の20代の女性は皆「当分は子供はほしくない」と考えていました。

仕事に打ち込みたいけれど、子供が出来たら世話をしなければならないから、もしくは、実際にお腹を痛めて生んだ子供にはやっぱり手をかけたい、愛情をかけたいけれど、その意識が強くなることで仕事をおろそかにしてしまいたくはないから、など、理由はさまざまでしたが、突き詰めてみれば、その根底には「女性が育児をすべき」という考え方があるんじゃないかと思います。

ーーこの、「子供は3歳まで母親の手で育てるべき」という質問に関して、ほかになにか掘り下げられそうでしょうか。

祖父母が育てることの是非、というのもあるかもですね。子供の父親母親世代は仕事で忙しい人が多いと思いますが、おじいちゃんおばあちゃん世代になるとすでにリタイアしていて、子供に割ける時間も持っている人も多いのではないかと思います。子供と触れ合うことで高齢者の老化がゆるやかになるというような話も聞いたことがあります。

それがビジネスになるか、はわからないですが、今保育園も「保活」なんていわれたりと空きが少ない状況なので、おじいちゃんおばあちゃんが主体となって、地域全体で子供を見てあげられるコミュニティシステムを作ろう、というプロジェクトに関わっている子が友人にいたな、と思い出しました。

ーーもう少し子育てに関する意見を掘り下げてみましょう。例えば、父子家庭とか母子家庭という家族構成も当然世の中には存在しますが、「子供は3歳まで母親の手で育てるべき」という見解はこうした家庭を否定することになるのではないか、という見方もできると思います。これを聞いて何かご意見はありますか。

確かに、私は両親が揃っていて、近くにいてくれたという恵まれた環境で育ったということもあって、この質問文を読んだときに嫌悪感のようなものは感じませんでした。しかし、片親家庭で、特に、母親の手で育てられていないという人は、自分の生き方が否定されているように感じて凄く腹を立てるのではないかな、と思います。

「同性愛っていう言葉を聞くと偏見、つまり、ちょっと異端だな、ちょっと違うな、という印象をどうしても持ってしまいます」

ーー同性愛パートナーによる里子や養子制度も非常に議論になることが多いトピックです。これについてはどうお考えでしょう。

すごい失礼なことだとは思うんですが、同性愛っていう言葉を聞くと偏見、つまり、ちょっと異端だな、ちょっと違うな、という印象をどうしても持ってしまいます。

ーー完全匿名なので、思ってることをぜひ共有ください。

アメリカ留学中に、いわゆるゲイ、男の人が好きな男の人と多く知り合いました。彼らは普通にしっかりした考え方を持っていて、変人っていうカテゴリーに入るわけではまったくない。ただただ、彼らにとって愛する対象が、異性ではなく同性にあっただけなのだということを実際に目の当たりにしました。

恋愛対象が同性であった、ただそれだけのことだという一方で、やはり彼らは大衆とは違う、周りから浮いた存在であると感じてしまう。そういう自分の反応に、これまで無意識に生きてきた人生で自分はそういう感じ方をする人間になってしまったのだなぁというふうに感じます。

ーー同性愛というのは、男性同士のほかに女性同士のパターンも含みますが、同性愛カップルが養子縁組で子供を持つということに関しては、どんなご意見ですか。

直感的には、同性愛カップルが養子を持って子育てをするのは良いことだと思います。僕のイメージですが、養子ってつまり、両親を亡くした子供とか、仮に両親存命でも育児放棄などで養護施設で暮らしているような子供が家庭に受け容れられるということですよね。

個人的に、養護施設で育つということは、自分を心から愛してくれる人が居ない環境で育つ可能性があるということだと考えています。だとすれば、同性愛者を「両親」とする家族であったとしても、養子として受け容れるにあたってはその子を愛して、家族として育てていこうという意思がある人の下で育つことになるので、施設で育つことに比べたら良いことなのではないか、と思います。

ただ、直感としては良いことだな、と思った一方で、その子が成長する過程のことを考えると、一概に良いとは言い切れない場合もあるかな、とも思います。

とくに小・中学校くらいの年代の子供って、誰かを敵にすることで皆との仲間意識を持とうとする傾向が凄く強くて、だからいじめ問題も起こるのだ、と僕個人的には思っています。そうすると、両親が同性愛者であるということがクラス全体に知られてしまうことは、その子にかなりプレッシャーをかけることになって、将来にも大きな影響を与えると思います。

ーーお話ししながら意見が変わっていく、別の観点からの考え方が出てくるのはとても自然なことというか、そのプロセスをこそ掘り下げたいので、ぜひ引き続き率直な考えを教えていただきたいです。

「相手を完全否定せずに自分の意見を主張すべきだ」

ーー続いていままで考えてきた意見や考え方の背景になっている価値観をお聞かせください。例えば、保育園がある地域で、そこで遊んでいる子供たちが事実としてかなりうるさい子供たちであるとします。

そうすると、この事実から、「うるさいけれど、保育園は作ってもよい」「うるさいので、保育園は作るべきでない」と主張する人も出てくるでしょう。この主張の違いの背景に価値観の違いがあるのです。

保育園賛成派は、「子供はうるさいぐらいが元気で良い」という価値観や、「子供は国の未来の宝である」といった価値観を持っていると考えられます。一方保育園反対派は、「子供だけではなく私たちの静かさを求める権利も尊重されるべき」といった価値観が予想されます。

だから、「子供たちがうるさい」という同じ事実を前にしたときに、それぞれが抱える価値観によって、導き出される主張が異なってきます。「主張」と、その背景にある「価値観」については、以上のご説明でイメージを掴んでいただけるかと思います。

ご自身の主張について、どのような価値感が背後にあるものと思われますか。

そのご説明に従えば、私なりの価値観といえるものは、誰かと会話や議論をするときに、相手を否定しない、相手の立場に立つということを大事にしているということだと思います。

ーー人の立場に立たないのは悪いことだ、もしくは、人の意見を否定するのは悪いことだ、という価値観だということですね。

「人の意見を否定すべきでない」という価値観と言えるでしょうね。実は私は、幼稚園まで暴れん坊だったんです。幼稚園の先生に迷惑をかける有名な一番の悪ガキで、そのまま小学校にも上がりましたが、同学年に金髪で緑色のランドセルを持っている子がいました。その子は僕よりも腕っぷしが強い暴れん坊で、とにかく言葉が通じない、キレたら何をされるかわからないという子で、その子の存在によって、急に弱者の気持ちがわかるようになったんだと思います。一方的に威張っていた幼稚園時代と変わって、相手の話を聞く姿勢ができたんです。

自分より強い存在がいたことによって委縮したということもあると思いますが、一歩引いた立ち位置から物事を見るようになりました。人と会話をするときに、相手の考えをいきなり全部否定する、相手の言うことを「それは違うよ、こうだよ」と押し付ける幼稚園までの威張りっぱなしの考え方では当然うまくいかない。かといって小学校で学んだ、相手にこびへつらうだけでもうまくいかない。この両方の経験をしたことで、中学校以降は、相手の意見を否定せずにかつ自分の言いたいことも言うというスタイルに変わっていきました。

そうすると周りから「水谷君は、相手の話をよく聞いてくれて、気持ちを分かってくれるから優しいよね」という評価をされるようになりました。それで、相手を完全否定せずに自分の意見を主張すべきだという価値観が形成されたと思いますね。

「あなたは男だから、将来働いてお金を稼いで来なければいけないんだよ。」

ーーたしかにそういった姿勢をお持ちだということは、これまでお話を伺うなかでも感じられますね。それが議論する際の価値観だとすると、もう少し深堀りして、ご自身の主張に影響する価値観はなんなのかというところをお伺いしたいと思います。

具体的には、先ほど、3歳まで母親だけが育てるべきか否か、という質問に対して、「両親が関わるべき」「男の子にとっての異性、女の子にとっての同性のみが育児をすることの将来的な影響とは」というところを問題提起されましたが、ここにこそ水谷さんご自身の価値観が反映されているところだと思うんです。

私は家族が大事だ、ということをとても強く感じているので、これも価値観なんでしょうか。

自分の家族を振り返ってみると、父親が子供をけなす役割、母親が子供を甘やかすというシステムを意識的にとっていたようなんです。父親は普段特に何も言わないけれど、テストで酷い点を取ったり、「ゲームは30分」という家庭内のルールを何回も破ったり、嘘をついたりと、なにかとても悪いことをすると、もちろん母親にも叱られるんですが、父親がそれよりも厳しい存在として登場してくる。蹴とばされた思い出や、「出ていけ!」と怒鳴られた記憶もあるぐらい、昭和的な家庭でした。今でも父親は強くて怖い存在として体に刷り込まれています。

このように、私は父親が叱る、母親が甘えさせてケアしてくれるという家庭に育ちました。逆に友人の家では、お父さんがとても優しくて、お母さんが物凄く厳しいというパターンもありました。いずれにせよ、私の経験では役割分担がある家庭というものが主流なんですよね。こうした経験から、この質問の「片親」という部分に反応したのだと思います。

だって、この役割分担をうまく行うには、育児に関わる人が1人ではなくて2人いる、ということが非常に重要になりますよね。片親、つまり1人でこの両方の役割を両立するのは難しいでしょう。厳しく叱るのも甘やかすのも、どちらも親の役割として重要なものですが、これを一人で両方担うのはものすごく大変だと思います。だからこそ、両親2人がいて、子育てをするべきだと考えます。

ーー今お話しいただいた厳しさと甘やかしの役割分担ということと、先ほどお話があった女の子だと母親だけの育児では異性を知らずに育ってしまう、という意見については少し立脚点が異なると思いますが、その点はいかがでしょう。

我が家は父親が働いていて、母親は専業主婦という家庭で、「あなたは男だから、将来働いてお金を稼いで来なければいけないんだよ。だから余り甘い考えじゃダメだよ。」と言われて育てられてきました。母は、結婚する前は学校の先生だったようで、父のようにバリバリ働くという感じではなく、あまり社会を知らない人なので、私には父親のようになってほしいと思っていたようです。

ただ、専業主婦の母親に育てられていると、母親の姿ばかり見て育つので、やっぱり母親の影響が大きいんですよね。私は男性ですが、母親という女性が近くにいて甘やかしてくれたということもあって、母親の影響をとても強く受けているな、と感じています。なんとなく、母親が正しいんだ、という思いを持ってずっと生きてきています。

今は社会も大きく変わっているから少し違ってくる部分もあるかもしれませんが、母親だけに育てられた女の子は、母親の生き方を同性のロールモデルとして刷り込まれるようになるかもしれないし、男の子であれば男性のロールモデルに触れる機会がないまま、女性とはこういうものだと認識するようになってしまうのではないかなと思うんです。

特に男の子にとって、常に家庭にいる母親の姿しか大人のロールモデルを持たないということは、世間に出てから何かしらの摩擦を生じさせるのではないでしょうか。

ーー水谷さんは、性別あるいはジェンダーと働き方とを紐づけてお考えなのですね。だからこそ、将来的に自分も専業主婦になる可能性がある女の子であれば母親だけの姿を見て育っても将来ギャップを感じることはないかもしれないが、男の子は将来社会の荒波の中でバリバリ働かなければいけないから母親の姿だけを見て育つと大変になるのではいう懸念があると思います。

そのようにまとめていただくと、おっしゃる通りですね。私自身、「女性は家の中、男性は外で働く」という昭和的な家族のシステムを幼少期から強く認識してきました。

父親とはすなわち仕事に行っていてあまり自分の近くにいない存在である。母親とはすなわち常に近くにいて世話してくれる存在である。そういった家庭で育ってきたからから、私も将来結婚したら女性には家の中にいてもらいたいと考えています。

私にはすでに結婚している兄がいますが、兄も結婚するにあたって奥さんに家の中にいてほしいと言っていたので、兄弟揃ってそういった家族の形やイメージの形成には幼少期の環境が大きく影響していると思います。

女性の視点も活かされるべき。けれど、奥さんには家庭に入ってほしい。

ーー子どもが3歳になる前に保育園などの施設に預けてキャリア構築を続ける道を模索する女性もいます。おそらくこういう方は水谷さんの意見に反対すると思いますが、それはいま水谷さんがお話くださったような価値観を大事だと思っていないからなのか、他の理由があるのか、想像で構いませんので水谷さんのお考えを聞かせてください。

大前提として、私は相手を否定してもなにもプラスのものは生まれないと考えています。私は子供は3歳までは母親の手で、家で育てた方が良いと考えているけれど、そんな私に反対の意見を言ってくれる人は、貴重な意見をくれる人だなというふうに受け止めています。

と前置きをしたうえで、子供を預けて働く人のことを考えると、自分の人生だし、自分の時間を大切にしたいと考えているのではないかと思います。

もちろん、家庭を取り巻く環境によっても様々な場合わけが出来るでしょう。両親が揃った家庭で、かつ父親の稼ぎだけで十分生計を立てられる状況でも保育園などの施設に子供を預けて仕事をしている場合、母親は子供よりも仕事を優先していると言えると思います。子供の世話に割ける時間があるのにそれをしないというのは、母親が仕事をしたい、ひいては自分の時間を自分で使いたいという考えの表れなのではないかと思います。

ですが、父親が稼ぐお金だけでは生計を保てないという家庭の場合は少し話が変わってきますよね。生活のために母親も働かないといけないので、保育園に預けることが必然的に必要となってくる。そういうこともあるから、私と反対の意見を持ってる方々はきっと、自分の置かれてる立場をすごい大切にしてそれぞれのお話をしてくれているんだろうな、私の知らない部分について経験があるからこそ意見してくれているんだろうな、と思います。

ーー「3歳までは母親がしっかり子育てをしたほうがいいといわれても、そんなこと言ってられない、仕事をしなければ生きていけない」という状況にある人もいるわけですね。

そうですね。だからこういう質問に答えるのはとても難しいなとも思います。私自身、来年就活なので、いま下調べとかをしていますが、性格診断テストとかも卑怯な仕組みだな、と少し思います。

例えば、「ポジティブ思考で、積極的に行動をする」という項目がよくありますが、その行動の対象が何かによっても答えは変わってきますよね。それをデータを基に人の性格を判断するというのは、酷な世の中だなぁと思ったりするんです。

ーー人間は「こういう状況であればこう判断するし、別の状況に置かれたら別の判断をするよね」と考えていらっしゃるからこそ、他者の意見もそのように耳を傾けることができるし、自分自身の考えについても客観化しているように感じられます。

「女性が工事現場で働くことは、工事現場をより良くするための発想を生み出す起爆剤になりうるのではないか」

ーー今現在大切にしている、あるいは大切にしようとしている価値観を持つに至った背景、そこにある物語はなんなのか、ということをお伺いしたいと思います。

具体的には、「女性は家の中にいてもらいたい」という考えは、いつ頃から具体的なものとなったのでしょう。どんなエピソードが積み重なってこの考えに至ったのか、誰かと議論をして考え方が変わった瞬間があったりするのかという水谷さんご自身の物語を教えてください。

繰り返しになってしまいますけれど、「母親、つまり女が家事、男が仕事」という考えは昔から漠然と持っていましたね。中学生までにはそのような考え方をしていたと思います。ですが、振り返ってみると、中学の終わりころに、少し違った考えをするきっかけがあったと思います。

そもそも、小学校のころって、私が幼かったのかもしれませんが、あまり女の子が異性であるということを意識していなかったんですね。だから女はこう、男はこう、という考え方をしていなかった。でも、中学生になると、体格的にも男女差が明らかになってくるのでやはり異性という存在を意識するようになり、女性の考え方って男性とは違っているんだなと思うようになりました。

というのも、私は理系タイプの人間で、理系の分野では敵わない奴なんていないと思っていました。でも、文系分野だと、女の子の方が凄い出来がいいな、と思っていました。男子でももちろん文系ができる子はいましたが、1位をとったり、上位にいるのは女の子が多かったんです。そういう明確な傾向がある以上、男ばかりが仕事をしていたら視点や考えがかたよるのはないか、と思ったことがありました。

少し時間が飛んで、現在大学では高分子系を専門に勉強していて、一瞬化粧品の業界も面白いかな、と思ったことがあったんです。でも、自分では化粧品を使わないので、全然わからないなあという感想でした。そういう業界では、ユーザーでもある女性の方がわかることは多いでしょうし、女性用の製品を作る会社に女性のポストがあって、女性が活躍することには意義があるんだろうな、と思います。

逆に、少し偏見があるような言い方になってしまいますけれど、例えば工事現場で女性が働くとすると、平均的には男性の方が体力には勝るじゃないですか。だから、そういった体力勝負の仕事現場で女性が働くようになると、体力で勝負するのではない別のアプローチを考えつくきっかけになったりするのではないかな、と考えたりします。

個人的に、人間は窮地に追い込まれると、身体敵な能力でカバーするか、思考能力も含めた精神的な能力でカバーするかのどちらかだと考えています。なので、男ばかりで仕事していると、「男だろ!もっと頑張れよ!」みたいな、身体能力をベースにした精神論みたいな方向に行ってしまって、アイディアで工夫をするという精神的能力は使われないと思うんですよ。

でも、女性が工事現場で活躍するための方策を考えるときには、「プロテイン飲んで体を鍛える」という身体能力にアプローチするのも1つの手だとは思いますが、それとは別のアプローチもありうると思うんですよね。私自身工事現場の詳しいことは知らないので、もしかしたら現場にはそぐわないことを言っているかもしれませんが、ドリルを使うとかの振動で肉体的なインパクトが強い仕事は男性にやってもらうとして、トラクターを操作するとかは女性でもできるでしょうし、人力の作業も、歩いて運ぶよりはローラーを使うとか、工夫次第で体力的な負担を軽減する方法はありますよね。

先ほどお話した中学・高校のときの女の子の文系の成績の良さという経験から、個人的に女性の思考能力の高さって凄いな、女性って賢いな、と思っています。だから、体力的には劣ってしまうかもしれない女性が工事現場で働くことは、工事現場をより良くするための発想を生み出す起爆剤になりうるのではないか、と思うんです。

中高のときの話に戻ると、少なくとも私の周囲では、文系ができる子ってたくさんの本を読んだり、新聞を読んだり、たくさんの情報を手にしていて、その結果頭が良いという子が多かったんですね。その点自分は、中高一貫校で数学と理科は常に上位にいたんですが、何というんでしょう、文系の繊細な、頭の中の情報や知識を組み立てていく考え方ではなくて、とにかく計算でゴリ押しすれば出来てしまうものなので、文系ができる人は凄いなと思っていました。

中高時代は凄いなあと感心しているだけでしたが、大学に入って、就活を目前に仕事のことを考えるようにったときに、文系の考え方、女性の思考も社会で生かされるべきだなあと気づくようになったと思います。

ーーそういった価値観の変遷を経て、社会の在り方として女性が活躍することに関してはまったく賛成だけれども、自分が結婚するとしたら奥さんには家に入ってもらいたい、家庭にいてほしい、という考えが、水谷さんのなかでは矛盾なく両立しているのですね。

そうですね。そのようにまとめていただくと少し不思議な考えなのかもしれませんが。

ーーいえ、お話を伺っているとそういう考え方をされる理由自体は理解できますし、なによりまさにこういうことを知りたくてこのメディアを作っていますので、詳しくお話しいただけて嬉しいです。

「女の子らしいことをやっている男性が出てくるドラマ、これを見た時に価値観が壊れた感じがしました」

ーー今のお話を伺って、追加で質問したいことが2点ほどあります。1点目は単純な好奇心からの質問です。先ほど、共働きでなければ生活できないのであれば働くしかないのだろうが、父親の稼ぎだけで生活ができるのであれば母親は家に入っても良いのではないか、ということをお話しいただきましたよね。この場合、例えば女性の方が稼ぎが良かった場合に男性が家庭に入るという選択肢は水谷さんのお考えとしてはありうるんでしょうか。

私は男性が家庭に入ることもありうる選択肢だと考えています。男性のなかには、男は外、女は中、みたいなイメージを強く持っていて、女性が働くことを嫌がったり、プレッシャーに感じたりする人もいるということは理解できるんですよ。

ただ、私自身の場合は、あまりそうでもなくて。その理由としては、小学生か中学生の時に家族で見ていたドラマの影響が大きくあります。乙男(オトメン)という、細かい内容は忘れてしまったんですが、いわゆる女の子らしいことをやっている男性が出てくるドラマ、これを見た時に価値観が壊れた感じがしましたね。

そういう内容がテレビで放送されているっていうことは、自分が知らないだけで世の中にはそういう人が存在しているということなんだ、と感じました。当時はまだ、「ドラマに取り上げられるということは社会的な承認があるのだ」というような考えまでには至りませんでしたが、それでも、「父親、つまり男が外に出てバリバリ働かなくてもいい、男性が洗濯などの、いわゆる女性がやる家事をやってもいいのだ」というメッセージを勝手に受け取っていました。

あとは、私はいわゆるアニメオタクなんですけれど、アニメの内容って、その時代ごとの社会をある程度反映していると思っています。それで、具体的にどのアニメでそう感じたのかは忘れてしまったんですが、お父さんが家事など家のことをしていて、お母さんが仕事に外に出ていくという描写が増えたな、と気づきました。そして、そういう働き方もアリだな、と思うようになったんです。

あとは、高校生ぐらいに兄に、「お前は頭が悪いんだからヒモにでもなったほうがいいよ」と言われたことがありました。かなり酷い言われようだと今では思うんですが、言われた時はそもそもヒモが何なのか知らなかったんです。それで意味を調べたときに「働く女性に縋りつく男性」みたいに出てきたんですが、その説明を見て、逆に男性だけが頑張らなくてもいいんじゃない、と後押しされたような気がしました。

女性がバリバリ働く「できる人」で、逆に男性は仕事の稼ぎはそんなにないけれど料理や洗濯など家庭での家事スキルがとても高いのであれば、そういう組み合わせでも家族は回っていくんだろうな、と思ったんです。私自身も料理は好きな方なので。ただ、ヒモの場合は少し違うかもしれませんけれど。

こうしてお話ししてみると、先ほど言った女性が家にいてほしい、という考えも、私がきちんと稼げるパターンでのものですね。もし奥さんになる女性が私より3倍も5倍も稼げる人であれば、私が家にいるのもアリだなと思いました。必ず親のどちらかが子供のそばにいてほしい、いてあげるべきだ、ということが、私が一番大事にしたい考えなんだと話していて気付きました。

ーーお伺いしたかったことの2点目がまさに、なぜ「子供のそばに親がいるべき、いたほうがいい」という考えをお持ちなのか? というところでした。逆に言うと、親がいないとどのように困ったり、良くないことがあるとお考えなのでしょうか。

そこについては、私自身の考え方も、いろいろな情報を手に入れるにつれて変わってきているので、昔考えていたことと最近考えることとがまた違ってくるので難しいのですが…。

私は割と子供のころの出来事の記憶があり、幼稚園か小学生くらいのころの記憶で強く印象に残っているものがあります。父親が朝から仕事でいないことはいつものことだったんですが、朝起きた時に母親もいなかったことがあったんです。メモもなかったうえ、外では雷が鳴っていて、とにかく死ぬほど怖かった記憶が強く残っているんです。

結局、母親はその時間に私が起きると思わずに少し買い物に出ていただけらしくすぐに帰ってきました。ちょうど母親が不在の時に起きてしまって、誰もいないという恐怖と雷が鳴っている恐怖で、一人でテーブルの下でうずくまっていました。

誰もいない場所に置かれるって、少なくとも私にとっては死ぬほど怖かったし、小さな子にとってはとても恐ろしいし寂しいことだと思います。こうした自分の経験が、子供のそばに親がいるべきと考えるまず一番の理由だと思います。

その後、中学生・高校生くらいになると、道徳の授業とかで「孤食」とかについても勉強するじゃないですか。そういう授業を受けているときに、やっぱりこうならないように両親が子供の近くにいるべきじゃないかな、と考えていました。

あとは、アニメの影響も強くあると思います。テーブルの上にラップがかかったお皿が置いてあって、「レンジで温めて食べて」という親からのメッセージが置いてある。これを子供が一人でテレビ見ながら食べている、という描写がとても強く印象に残っています。私の場合は食事時には絶対に父親か母親のどちらかが一緒にいて、孤食とは無縁だったので、余計に、誰かがそばにいてあげるべきなのでは、と強く思いました。

ーーありがとうございます。「孤独にならないこと」「誰かがそばにいること」が大事だと考えていらっしゃるんですね。両親以外の、ベビーシッターのような人が代わりにそばにいるということについてはどんなご意見ですか。

ベビーシッターでは両親の代わりにはならないと思います。私がベビーシッターに面倒をみてもらった経験がないから推測でしかないですが、どこまで子供に対して親身になっても、結局他人であることに変わりはないじゃないですか。

例えば、人を殺しちゃダメ、とかそういうレベルの社会のルールとかは当然ベビーシッターが子供に教えることは出来るでしょうけれど、床の上でご飯を食べるのはダメなのかどうか、というのは、ベビーシッター自身の見解は関係なく、その子供の親がどう考えるかによると思います。しっかりご飯を食べてくれればいい、と考える母親であれば床だろうとどこで食べてもいい、と言うかもしれない。逆に、机の上で食べるのがマナーであり礼儀である、ということを重んじる母親であれば床で食べるなんてとんでもない、となるかもしれない。また、マナーも食べる量もさほど気にしないけれど、床にこぼれて汚れるのは嫌だ、という理由から床で食べてはいけない、という母親がいるかもしれない。

いろいろなパターンがありえますが、共通して言えることはベビーシッターが決めることではなく、親の考え方次第であるということだと思うんです。一般常識に照らして普通に食べなさい、と厳しく言うこともできるかも知れませんが、ベビーシッターからしても他人の子供のことですし、子供からしても他人が言っていることなので、両者の間であまり良い関係は生まれないのではないかな、と思いますね。

ーー興味深いですね、ちなみに、「他人」という言葉が出て来たので、少し脇道にそれてみたいんですが、昔は近所に住んでいる「雷おじさん」みたいな、親以外の「他人」がしつけやマナーを教えていた側面があったかと思います。

子供が電車で走り回っていても親が叱らなかったら、昔だったら周囲のおじさんおばさんがたしなめていたんだけれど今ではそれもなくなった、とかよく言いますよね。

こういう「他人」の関わりについてはどのようにお考えでしょう。なくなってしまって勿体ないと思うものなのか、なくなってもいいと思われるのか、ご意見があったら教えてください。

あいまいな意見になってしまうかもですが、これはケースバイケースなのではないかな、というのが率直な感想ですね。例えば「雷おじさん」の例だと、そういう存在はあるべきだし、注意をしてくれるのが少なくなってしまって寂しいな、と個人的には思います。誰もが近所だったりその場にいる子供を皆で大人にしてあげよう、と、ある意味で身内だと思っていることのあらわれだったんじゃないかなと思うんです。

昔、スマホが普及する前の社会では、電車の中でも声をかけられる比率が高かったですよね。おじいちゃんとかのグループの近くで電車に乗ってると、「ちゃんと座れていてエライねえ」と言ってもらったり。私が子供の時はそういった声かけをしてもらって、自然と仲良くなるということもまだあったのが今ではもうなくなっていて、それは完全にスマホのせいだと思っています。

ただ、地方だとまだフレンドリーに接してくれる人は残っているな、と思いますね。私はロードバイクのツーリングサークルに入っていて、これまでに日本一周もしており地方に行く機会が多かったので、都内との違いを感じました。都内はもう雷おじさんみたいな存在は全然いないですよね。それはちょっと寂しいなと思います。

「「あなたの人生だからあなたが決めなさい」という親も昔より増えてきている」

ーー最後に、水谷さんとはまったく反対の意見を持つ人も世の中には当然存在すると思います。その人たちがそういう価値観を獲得した背景を想像してみると、どんなことを経験している人たちだと思いますか?ということをお伺いしたいと思います。

私は母親が家庭にいるべきだと思っているので、その反対の、社会進出を推進する考え方を持っている人たちがどんな背景を持っているのか、ということですよね。

今ぱっと思いついたのは、私と反対の考えを持っている人は、親からの影響をあまり受けて来なかったのかな、と思いました。これまでのお話でわかるかもしれませんが、私は親との接点が多い、過保護な家庭で育てられてきたと思います。だから、男は外、女は中という、昭和の、あるいは親世代の考えをそのまま引き継いでいます。

一方、女性の社会進出に積極的な人は、親がさほど口出しをしなかったんじゃないかな、と思います。それは放置していたとかそういうことではなくて、子供に自由にしてもらいたいからこそ、あえて自分の世代の価値観を押し付けることなく、最低限の社会的なルールを守ってさえいればあとは自由にさせていたのではないかな、と思いました。

「女性の社会進出」というテーマについて親子で議論することはないかもしれないですが、女の子だと、例えば野球とかのスポーツをしていた場合、中学に上がった途端に、女子が入れる野球部がないという現実に直面して、女子はプロ野球選手にはなれないみたいなことに気づかざるをえなくなるタイミングが来るじゃないですか。

親はもうそういう現実をわかっているから、そもそも小学生くらいで野球に興味を持った段階で「将来がないんだからやめなさい」と言うかもしれない。小学生で野球をするのは見守っていても、中学生に上がったらもうやめなさい、と言うかもしれない。もちろん、それでも私は続けたいんだ、となんとかして続ける子や、あるいはソフトボールに転向する子もいるかもしれませんが、やっぱり親の言うことは子供のなかにある程度のインパクトを与えるものだと思うので、子供の記憶のなかには残ってくると思うんですよね。

一方で、最近ではそもそもそういうことを言わない親、あるいは、「あなたの人生だからあなたが決めなさい」という親も昔より増えてきているように思います。だからこそ男は、女は、というふうに性別に縛られない意見が出てきているのではないかな、と思います。

ーー水谷さんの家庭の場合は、親が「こういう生き方がいいよ」と直接的・間接的に伝えてきていて、それが水谷さんの価値観形成に寄与しているという感覚をお持ちなんですね。

そうですね。お話ししているなかで、自分でもそう思いました。

企画の趣旨説明の時にお話しされていた、SNSでの対立、って普段もよく見かけますよね。私は主に傍観している立場なので、逆に、完全に片方のサイドに寄れる人のことを凄いな、と思うんです。

要するに、敵を作ってもいい、自分と考えが違う人は離れていけ、と思っているわけですよね。私は、彼らを離してしまう勇気がないんです。できることなら、自分と同意見の人にも、異なる意見の人にも、どちらにも自分の近くにいてほしい。もちろん、やっぱり世の中って酷なものなので、どちらかの立場を明確にとらなければならないとき、というのもありますが。

そういう背景もある中でこのメディアの企画を見かけて、非常に面白いなと思って。機会をいただけてありがとうございます。

ーーとんでもありません。インタビューを終えての感想や、フィードバックみたいなものはございますか。

私は、お話したり、それを通じて自己分析をしたりするのが好きで、人との繋がりも大事にしたいと考えているので、こういった内容をお話しすることができてとても良かったと思います。

取材してくださった方の引き出す力も凄いな、と思いました。自分の言いたいことが、話しているうちに整理できて。もっと違う経験が自分を形成しているんだと思っていたんですけれど、結論としては、自分の考えがかなり両親に依存している部分があるんだなということを、このお話をすることで気づくことができてとても良かったですね。

両親、あるいは家族の影響というウェットなものが自分の口からロジックとして出ていることに気づけたのは、とても面白かったです。

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