「私、何の根拠もなく日本人は良い人間という衆議院議員の杉田水脈が嫌いなんです。」

「私の小中学校のときの同級生とか、みんな犯罪を犯しそうな奴ばっかり」だった大木さんにとって、自民族優越主義や、それが生み出す全体主義は懐疑の対象に他ならない。

企画説明

どうすれば私たちは他者への想像力をもう一度取り戻し、異なる他者と対話をすることができるでしょうか。私は長い間それについて考えてきましたが、いまひとつの仮説を持っています。それは、意見や主張の背景にある、その人の物語を共有することです。

理解できない、異常な、よくわからない人として否定しあうのではなく、むしろどのような経験が、その意見や主張を生じせしめたのかを尋ねることから始めたいと思うのです。「なぜこんな考えを持つのだ、それは間違っている!」という姿勢ではなく、「なぜそのように考えたのだろう。この人はどんな経験をしてきたのだろう?」という姿勢で、様々な対立を捉え直したいのです。

同性愛者を非難する人、出生前診断を肯定する人、外国人への生活保護に反対する人、いきすぎたフェミニズムを攻撃する人、天皇制を廃そうとする人、公人の靖国参拝に賛成する人、育休・産休制度を進めたい人、様々な人たちの「声」を取り上げ、その主張や意見以上に、その物語を尋ねる旅をしていきます。

(ステートメント全文はこちらから)

「多様性」と聞くと「排除」という言葉が浮かぶ

ーー早速ですが、多様性という記号を聞いて、あなたはどんな議論を思い浮かべますか? 特に、ご自身が強い感情を惹起されるものを中心に教えてください。

一番思うのは、女性がいつも「多様性」にくくられるときですね。すごいなって思います。「女性って多様性のうちの1つなんだ」みたいな。

私が今やってる仕事って、政府に提供されるレポートを作成するものなんですね。いくつかあるテーマのうちの1つが「多様性」で、対象として女性・外国人・障害者・LGBTが挙げられています。男性は多様性にならないんですよ。

また、個人的には多様性という言葉よりも「排除」という言葉の方が、自分の感情が刺激される感覚がありますね。排除という言葉に関連して、多様性という記号が出てくるという感じです。

ーーそれでは、「排除」という記号を中心に様々な議論を捉えなおしてみるとどうですか? 特にご自身の感情が惹起されるものを教えてください。

私、衆議院議員の杉田水脈がすごく嫌いなんです。何で嫌いかっていうと、すごく差別的な人間だからなんですね。例えば今回のコロナ禍における10万円給付も外国人に払わなくて良いとか、日本人が犯した様々な過ちについて「日本人はそんなことをしない」と言ったり。

何の根拠もなく、日本人は良い人間であって外国人はそうではないと、自民族中心的な見方を背景に、それ以外を排除するような発言をするんですね。

別に日本に住んでいる人達は、外国人であっても普通に税金も払っていて暮らしてる。日本人よりもちゃんと暮らしている人達はいるのに、国籍が違うというだけで、不当な扱いを受けるということは、私はすごく嫌なことであると思います。

朝鮮学校に対して、助成金を出さないとかということもしかり。ごめんなさい。ちょっと話がぐちゃぐちゃになっちゃったんですけど。

一枚岩みたいな状態っていうのは、すごい怖いこと

ーー全然、問題ありません。ありがとうございます。今、お話してくださったお話について、特に議論になっている部分と、それについてのご自身の考えていることを教えてください。

例えば、朝鮮学校助成金の件については。やっぱり、もうちょっと歴史的に遡った方が良いと思っています。何で、彼らがここにいなくてはいけなくなったのか。何で、日本で自分のアイデンティティを育まなければいけなくなったのかについて。

色々あると思うんですけど、元々、無理矢理連れてこられた人たちが結局、残ってしまっているわけですよね。嫌でも、国に帰るようなこともできずに、残ってしまった人たちが、そこで生活を営む上で仕方なかったと思うんですね。独自のカリキュラムで学校を創るということが、自分たちの文化を保持するために。

それでも、日本に暮らすっていうことは。それは元々、やっぱり、辿れば。そうしたかったわけでは決してないと思うんですね。すごくやりにくいことだろうし、差別を受けるだろうし。色々な親戚とか身寄りもいない中で、「そっちに帰れ」って言うことは、すごく非情なことだと思います。日本の責任として、助成金は出すべきだと思う。朝鮮学校に関してはそんな風に思いますね。

ーー逆に、ご自身とは異なる意見や主張についても、簡単に概要を説明していただけますか?

おそらく彼らは、朝鮮学校は日本のカリキュラムに属していない、文科省のやってる通りにしていない、インターナショナルスクールと同じものであるから「日本の学校ではない」っという認識をすごく強く持っていると思います。

日本の学校ではないのに、なぜお金を出さなくてはいけないのか、ということですね。日本人のために使うべきお金を、他の外国人のために使ってるっていう事があると思うんですけど、そこの線引きってすごく難しいなって。

線引きというか、結局、そこに暮らして、経済活動を行って働いて納税している人達ということで見れば、別にどこの国の人であろうと、私はそんなに変わりはないと思っているので。

一番思うのは子供に罪はないなっていうことですね。学校にいる生徒は、それは親の選択だし、日本の学校に通うっていう選択もできた。彼ら本人が生活していく中で「日本の学校に通いたい」っていう子も、絶対いるとは思う。そういう個人の選択の自由がほぼなかったのに大人達の事情で、お金を出さないとか、一番酷いのは朝鮮学校に向けて「潰せ」とかすごい手紙が送られてきて、本当に酷いなと。

少し話はずれますが、結局、言語文化的な面で色々な人がいた方が全体主義に陥らないという点では私は良いと思っている。適度に引き裂かれている状態だから。一枚岩みたいな状態っていうのは、すごい怖いことだと思っているんですよね、逃げ場がなくなっちゃうし。色々な対立的なものを自国民に強いる形になると思うから。私は、それが多分、嫌なのかもしれない。

私の中にもある、内なる優生思想

ーーありがとうございます。さらに、そのような考えが形成されていった背景というのをぜひお伺いさせてください。議論について考え始めたきっかけや、この議論に関して、ご家族やご学友など周囲の価値観はどのようなものだったのでしょうか。

少し前提というか、違う観点からお話をさせてください。今、話してるような多様性っていうのは、トピックごとに立場が違っても良いっていうことで、話してて大丈夫でしょうか?

私は、多分、トピックごとに立場が違わざるを得ないというか、自分が常に一貫したものを持っているわけではないと思っているんです。

外国人排除とか不当な差別とかっていうことはすごく嫌だと思うのですが、それと同時に、私はいつも出生前診断のことを思い出すんです。出生前診断陽性で、9割5分の人がおろしていて、私も多分、95%に入っています。そういうことを選択するような人間が簡単に多様性って言っちゃいけないという風に思っている。そういうことは、すごい暴力だなと思っているんです。

内なる優生思想って、色々な所に繋がっていくと思うんですけど。障害がない方が良いっていうのは結局、正常と異常を線引きするっていうことですよね。「普通・その他」「私たち・その他」みたいなことで。

結局、自分もどこかで色々な所で線引きをしていて、そこがあまりない部分とある部分があるという風に思っているんです。そのあんまりない部分が、私にとっては、言語文化的なものだっていうところだと思います。

私、お父さんが、わりとこう根拠ない反日反韓の人で。何でだろうなって思うんですけど。やっぱり、自分の国が優れている方が良いっていうような素朴な感覚だと思うんですね。今の50代~60代のおじさんに多いのかもしれないですけど。

それで、私も何でなのかよくわからないけど、小学校とか中学校とかの頃は親の方が結構ものを知ってると思ってたから、そういうもんなのかなぐらいに素朴に思っていましたね。周りにそういうこと話す機会はむしろなかったので。変化があったのはやっぱり、大学に入ったくらい。

私はオリンピックが嫌いだと言えなかった

ーー具体的に、父親が話していたその根拠のない反韓反中っていうのは、どういうエピソードがあったかぜひお伺いさせてください。

まずは、慰安婦はいなかったみたいなことをニュースを見ながら言っていましたね。あと、わりと素朴に何だろうな、中国人韓国人への、今はすぐ思い出せないけど、「日本、やっぱり良いよな。」「日本人はすごいよな。」みたいなことを言う事が多かったです。

WBCという世界野球選手権みたいなのがあって、一番最初の大会で、日本が韓国と3戦やったんですよね。よく知らないけど。1回負けて、最後の1回で勝った。その最初に負けた時に、韓国がマウンドに韓国旗を立てた。その時に、「だから、韓国は。」って言ったのを覚えています。

それは立てた奴が悪いのであって、何でそれが国全体に向くんだろう? っていうのをそのとき思ったことをすごく覚えているかもしれない。その国と個人とを分けて考えないことがすごく不思議だったかもしれない。

父親の細かい言動は覚えてないけど、すごくそういうのに批判的だったし、色々なところで、中国人はルールを守らないとか、どこで知ったのかわからないけど、すごい汚いらしいぞとか、韓国人は犬を食べるなんて!みたいな。言っていて恥ずかしいですね。

それとは対照的に、自分、綺麗好きじゃないのに、日本人は綺麗好きで礼儀正しいとかいうことを言っていたなと思います。

ーーありがとうございます。そこから異なる価値観と出会えたとおっしゃっていた大学では、どのような価値観と出会ったのでしょうか。

少し話は変わって聞こえるかもしれませんが、私は「オリンピック嫌い。」ってずっと人に言えなかったんですよね。私は野球をみるのが好きだったのですが、オリンピックで日本を応援するのは、知ってるメンバーだから応援したいという程度のこと。

それに対して、日本として勝たなくちゃいけないっていう、国を背負っているみたいな風に考える人もいて。なんか戦争みたいだなという感じなので、「オリンピックなんてやめれば良いのに。」みたいなことを言ってる人と大学で出会えて、色々思っていることを話しても良いんだなと思ったりしましたね。

小中学校のときの同級生とか、みんな犯罪を犯しそうな奴ばっかり

改めて、日本人礼賛が、私の人生に全然、結びつかなかったっていうことは根底にありますね。結局、日本人礼賛をするためには、外国人が良くなくて日本人が良いとされますよね。「礼儀正しい」「優しい」「性格が良い」みたいね。よくわかんないけど。「日本人がそんなことするわけない」とか。

私の小中学校のときの同級生とか、みんな犯罪を犯しそうな奴ばっかりでしたから。こんな奴らの中で私は生きていたくないって思っていたのが、すごい大きかったので、やっぱり、父親が「日本人すごい」って言うときに全然共感できませんでしたね。

大学に入ってからは、日本人がどうこう言っている人が、本当にいないというか。私は外国文学を専攻していこともあるのか、外国文化に親しもうとしている人たちのマインドなのかもしれないんですけどね。相対的にに物事を見られる、日本を特別のものという風に思わず、たくさんあるうちの1つであると見方をする人が多かったです。

それに、大学ではハンナ・アーレントの考え方を知ったことがすごく大きかったです。戦争の時とかって、やっぱり。すごく性格が悪かったり、すごく差別的な人間だったり、そうした元々惨忍だった奴らが、何かすごく悪いことをするのではなく。普通の人間もすごく悪いことができるということを教えてくれました。

そして、全体主義が人間をそういう風にしてしまうっていうことを教えてくれたことはすごく大きかったし。すごく怖いと思いましたね。

ーーここで最初の方におっしゃっていた、全体主義への恐れみたいなものが出てくるんですね。もう少し詳しくお伺いさせてください。

ナチズムって民族の優位性だったじゃないですか。アーリア人が一番優等な種であって、劣種が特にユダヤ人。人種全体の比較みたいなことに走ったときに、人間はまともな判断力が持てなくなるんだなっていうことを思った。怖いのは知識人とか関係なく、どんなに頭が良くて、批判的な思考力がある人でも、何か自分が持っている絶対的な優位性みたいなものが過度に強調されて熱狂的なものになってしまう時に、ヒューマニティを失うんだなと思います。

ーーそこでいうヒューマニティってどういうことなんでしょうか。

人を人だと思うこと。自分と同じような人間だと、他の人間に対して思うことだと思います。今、ネトウヨの人たち、外国人差別をしているような人たちって、自分と同じ人間だと思っていないから酷いことが言えると思う。それは、自分の中にある何かある絶対性みたいなものを信じてないと言えない。それをやっぱり、一部の人たちが強力に、多分、無根拠に支持しているっていうことが怖いですね。

あんまりウェイ系右翼っていないと思う

ーーありがとうございます。さらに一歩踏み込んだ質問をさせてください。ご自身と異なる意見を持ってる人たち。全体主義的に陥り、悪を成し得る人たちは、なぜそのような考え方をするのだと思いますか? 想像で構いませんので、教えてください。

そういう人たちに共通するのは、基本的に自分が排除されているような意識だと思っています。ロジック通ってないなと思うんですけれど、うちの父親もそうなんですが、自分が排除されている寂しさみたいなもので、劣等感が強い。

自分があまり愛されなかったからなのか、劣等感が強くなってしまったからこそ、自分の中に絶対的な何かが欲しいって思うんじゃないかな。だから、ナショナリティがアイデンティティになりやすいのかなと思います。それは色々なメディアで右翼の人達とかが、定期的に強化してくれるわけです。「日本人は素晴らしい」という言葉で。

自分の中にあるものをすごい絶対視しちゃうと、それがすごい神聖化されちゃうような気がします。それをこう自分の中の唯一の強固のアイデンティティを傷つけられたと思う。すごくナイーブだから、そこをちょっとでも傷つけられたと思ったら、すごい過剰に反応しちゃうんじゃないかと思います。そういう意味で、あんまりウェイ系右翼っていないと思う。

ーーどうしてそう思われるのかぜひお聞かせください。

完全に想像なんですけど、『中年童貞』にも表現されていたり、友達から話を聞いていても、高学歴な人で、人付き合いがやっぱり、上手くない人はこういう風になりがちだと思いますね。

コミュニケーションができて。色々な人との関わりがあって、自分のパーソナリティ全体で、周りの人と関われてるっていう実感がある人は、自分の中の絶対性みたいなのものを探す方向に、矢印が向く機会があんまりないんじゃないでしょうか。外とちゃんと結ばれてるっていう感覚があるから。

そういう人たちって、外国人と仲良くなりやすかったりもするし。外に対しても開かれているっていうことと同じなので。基本的に人間に対してオープンでいられると思うんです。

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