「見下す、見下される関係が普通だったから、したくないのに女性を見下しているかも。」

子どもの頃から上下関係を強く意識して育ってきた森坂さん。社会のロールモデルに女性が少ない中で、自然と女性を見下すようになっていったと言います。

企画説明

どうすれば私たちは他者への想像力をもう一度取り戻し、異なる他者と対話をすることができるでしょうか。私は長い間それについて考えてきましたが、いまひとつの仮説を持っています。それは、意見や主張の背景にある、その人の物語を共有することです。

理解できない、異常な、よくわからない人として否定しあうのではなく、むしろどのような経験が、その意見や主張を生じせしめたのかを尋ねることから始めたいと思うのです。「なぜこんな考えを持つのだ、それは間違っている!」という姿勢ではなく、「なぜそのように考えたのだろう。この人はどんな経験をしてきたのだろう?」という姿勢で、様々な対立を捉え直したいのです。

同性愛者を非難する人、出生前診断を肯定する人、外国人への生活保護に反対する人、いきすぎたフェミニズムを攻撃する人、天皇制を廃そうとする人、公人の靖国参拝に賛成する人、育休・産休制度を進めたい人、様々な人たちの「声」を取り上げ、その主張や意見以上に、その物語を尋ねる旅をしていきます。

(ステートメント全文はこちらから)

「確かに、実際女性のことを下に見ているかも」

――早速ですが、多様性という記号を聞いて、あなたはどんな議論を思い浮かべますか。特に、ご自身が強い感情を惹起されるものを中心に教えてください。

「多様性」という言葉に触れると、無意識にセクシュアリティやジェンダー、人種の話を結び付けてしまいますね。そのなかでも何らかの感情が惹起されるものというのは、怒りや悲しみ、むかつく、聞きたくない、などネガティブな感情のことが多いんですが、ジェンダーやセクシュアリティの議論が一番連想されます。

これが「ダイバーシティ」という記号と繋がるんじゃないかな、と思うんですが…。私自身は女性に対して、好奇心もあれば性欲もあります。でも、どこかで卑下してみているんじゃないかな、と思うことがあります。女性をないがしろにして、女性がいても下ネタを言うとか、そういうことは違和感があってできないししないんですが、ふとした時の言動、「そこでそれ言う?」みたいなところに、女性を卑下しているような意識がにじみ出てしまっているんじゃないかな、と思うんです。

これを意識するきっかけになったのは、友人たちと海外旅行でテニスに行ったことでした。結構しんどかったので、一緒に行った女性の友人に、「俺ですらしんどいんだからしんどいんじゃない?大丈夫?」みたいな問いかけをしたんですよね。もちろん、その時はなんの悪意もない発言でした。

でも、少し経ってから別の友人に「あの発言だけど、ちょっと女性のことを下に見ているんじゃないの」と指摘されたんです。それで、「確かに、実際女性のことを下に見ているかも」って気づかされたんです。

このように、実際は女性のことを下に見ているのに、女性がいる前では「俺は女性を下に見ている」なんてもちろん言わないし、下ネタとかも言わない。そういう「リスペクト」はしていて、女性がいようが関係なく下ネタを言う人の存在には違和感を感じる。そういう、矛盾というか、ちぐはぐさを感じます。

――凄く興味深いお話ですね。ほかに、「多様性」という記号から思い浮かぶことはあるでしょうか。

自分自身は絶対にゲイじゃないと思っています。なんなら、ゲイというものに、普通よりはネガティブなイメージを持っています。もちろんゲイだからって差別はしないけれど、自分はゲイではないしゲイになりたくはない、と思っています。

でも、同性ですごく仲の良い子と遊んでいると、周りから「仲良いよね」みたいに思われることがあるじゃないですか。そういうときに、同性カップル、っていうことを想像することがあります。

そもそも、自分の性格上、例えば橋を渡っているときに「この橋から落ちたらどうなるんだろ」「ここから飛び降りたらどうなるんだろ」とか、橋に落ちてほしいとも橋から飛び降りたいとも思わないけれどそういうことを考えてしまうんですよね。その延長線上で、「この仲良い男友達にキスとかしたらどうなるんだろ」とか考えちゃうんです。

「相手はそんなことをする自分を受け入れるだろうか」「キスしたら相手との関係は壊れるだろうか」「関係が壊れるとしたらどういう風に壊れるんだろうか」とか、そういうことを一気に考えてる感じです。実は相手のことを好き、とかではないと思うんですけどね。

――非常に興味深いお話ですね。セクシュアリティに関わってくるものだと思うので、このインタビューでより深くお伺いしていければ、と思います。特に最初にお話しいただいた、頭の中で思ったり感じることと、それを口にするかどうか、さらには行動に移すかどうか、というそれぞれの違いというのが大事なポイントなのではないかなと思うので、それについても後ほど掘り下げていきたいです。

「理想としては、男女は平等であるべき」「実際はそうできてない自分もいる」

――ご自分の意見、つまり、「女性を見下す想いは持っていたとしても心に留めておくべきだ」という意見についてもう少し詳しくご説明いただいたうえで、その後「女性を見下す感情はオープンにしても問題ない」という意見についてもその背景などを想像して教えてください。

どこかで見下してしまっている自分がいるのも事実ですが、そもそもは見下すことすらしないというのが理想ですよね。理想としては、男女は平等であるべきだと思います。だって、生まれるときに「男がいい」「女がいい」って選べるわけではありませんし、そもそも両者がいないと人間が生まれませんしね。

大奥のような世界観も好きじゃありません。個人的に、大げさにリスペクトされるということが苦手というのもあるかもしれませんが、大奥のような殿様1人に女性が何十人っていう世界はやりすぎだと思うんです。そういう意味で、私は男女平等派。

――このとき、「男女平等」というのはもう少し具体的に言うとどういう状態のことになるのでしょうか。 

お互いがフラットな関係性なのが理想だ、ということですね。実際はそうできてない自分もいるわけですけど。

先ほどのテニスの話でも、多分5回ぐらい女性の友人に「俺ですらこんなにしんどいんだから絶対辛いでしょ」ということを言っていたんですよね。この友人もジェンダーとかに繊細な人だったんで、「大丈夫だよ」と普通に返答してくれてはいましたけれど、私の中の見下し感情みたいなものをおそらく察したでしょうね。私自身も、他の友人に指摘されてから、そういう自分がいたことに少し失望しました。

――それは女性だったから、なのでしょうか。一般的に女性全体にそのように感じていますか?

彼女に関しての感じ方は、女性だったからだったのだと思います。「自分の方が頭がいい」と思っていて、それが彼女にも察せられたんでしょう。ただ、有名な女性社長とかには感じませんね。そういう人たちにはもう実績があるから「俺の方が」とは感じない。そうでないと、例えば大学時代のコミュニティでは、半数以上に対して「俺の方ができる、頭がいい」と思っている節があります。

そういう感じ方は、明らかに男性よりも女性に対して多く持っていますね。それはもしかしたら、私が見てきたロールモデルが圧倒的に男性が多かったから、というのが理由なのかもしれない。とにかく、そういう自分がいるなあと思っています。

――理想としてはそうした思いを持つべきではないけれど、持ってしまう自分がいる、ということを自覚されているということも凄く大事なことだと思いました。続いて異なる意見、つまり「女性を見下す感情はオープンにしても問題ない」という意見の人たちってどんなことを考えているんだろうか、というのを想像してみて、教えてください。

最近だと、森元首相のような発言をする人がいると、連帯して強く反論する人たちがいますよね。あれがフェミニズムなのかどうかは置いておくとして、女性の権利を強く主張する人たちがいる。この人たちは、見下されていることに耐えられない人たちなのだと思います。

オープンに明言してしまう森さんのような人を激しく否定しているのはその顕れでしょう。さらには、心の中で見下した感情を持ってすら欲しくないという人もいると思うので、こういう人たちの意見が自分とは全くの対立意見になるのかなと思います。

こういう運動をしているのは女性だけじゃなく、男性もいますよね。彼らが本当に見下した感情を持っていないのか、実は差別意識や卑下する感情があるんじゃないか、ということは一旦置いておくとして。

というのは、森さんの発言に「そんなことを言うなんてありえない」と女性の権利を守ることを強く主張する男性だって、表立ってはそう言っているけれど潜在意識では私と同じように思っている可能性だってあると思うんですよ。ただ、公には「女性差別的なことを考えるなんてありえない」という主張をする男性もいる。彼らの意見も自分と対立する意見なのだと思います。

――森坂さんの意見に対する反対意見のパターンは4つぐらいありますかね。1つ目は、森さんのように普通に言動に出してしまう人。2つ目は、内心はどうあれ、表面的には女性の権利を保護しようとする人。3つ目が、森さんのように、差別的意識を発言して公にしてしまうことを強く批判する人。最後の4つ目が、言動に顕れていないとしても、内心で思うことそのものを許さず、責める人。

このうち、4つ目の「内心で思うことすら許さない」という人についてもう少しお聞かせください。

強くは非難してこないとしても、「あの男性にはちょっと見下されている感じがして鼻にかかるんだよね」という風にその女性が思ったら対立している、ということになるんじゃないかな、と思います。

例えば山登りのときの女性の友人が「森坂がああいうことを言ってくるのは嫌だ」とほかの誰かにこぼしていたら、それは言動を批判しているというよりはそう思ってしまっている内面を批判されているように感じます。

ただ、確かに少し女性を見下してしまっていますが、森さんほどのことを思っているわけではありませんよ。彼のようにオープンにもしていない。ただ、森さんの発言に対して声をあげて反論しようとも思わないです。女性を見下している自分がいることもわかっていますから。

「見下す・見下されるというのが自分の中で当たり前のものとしてあるんです。やられたら嫌なのはわかっているけれど、自分にとって当たり前すぎてやってしまう。」

――森坂さんの意見や考え方の背景になっている、大切にしたり重視している価値観は何だと思いますか?

私は結果主義なんだと思います。有名大学を出ているとか成果物がすごいとか、そういう目に見える結果が好きで飛びついてしまう一方で、目に見えない結果を出している人には気づけない。で、こういう目に見える結果を出している人ってやっぱり男性が多いと思うんですよね。

あとは、自分の育ってきた文脈のなかで、家族という視点と、学校という視点の2つがあります。

家族という視点からお話しすると、私の母は頭が悪いんですよ。料理はとてもできるんですけど、専門卒だし。母のことを馬鹿にしたことも結構あります。Lineとかも、文章になってないようなものを送ってくることも多いんです。家族のことは母が決めることが多いんですが、それで失敗をしたことも多いし、このことの影響は大きいと思います。

学校という視点だと、私自身がかなり見下されて育ってきたんですね。中学・高校といじられキャラとして男子からも女子からも長い間見下されてきました。

なので、見下す・見下されるというのが自分の中で当たり前のものとしてあるんです。やられたら嫌なのはわかっているけれど、自分にとって当たり前すぎてやってしまう。頭では平等であるべきだと思っているんですが、感覚としては、対等な関係よりは上下関係が当たり前のものとしてしみついてしまっているんです。

さらには部活でも上限関係が確立していたり、激しい言い方での命令が当たり前で、命令されたらその通りにやるのも当たり前、という文化がありました。人に命令するとか、こいつはこれをやる、という機能的な捉え方というのもここで身についたんだと思います。

――そういうときに、女性は実績がないから命令される側、という見方を無意識にしてしまっている。だから、例えば初対面の女性に何か命令されることがあったら、初対面の男性に同じことをされるよりも「えっ」と驚いてしまうだろう、ということでしょうか。男性になら初対面で命令されることがありえても、女性にされると「なんで女が」と思ってしまう。

「なんで女が」までは言い過ぎかもしれませんが、男性に命令されるか女性に命令されるかで捉え方に差はありますね。森さんだってそういうふうな捉え方をしていると思うんですよ。彼の発言は、言葉尻を捉えてというか、表面的な議論しかされていませんよね。大企業の会社員の立場であんなことを公に言ったら普通にクビにされるような発言だったと思いますし、そのこと自体はもちろん正しいことです。ただ、深堀していって、森さんの辿ってきた人生に照らしてみれば、おそらく彼の発言にはそれなりの合理性もあるんだろうなと思うんです。

――全ての人間の発言にはその人なりの合理性があるけれど、その「合理性」の実質が人によって異なっているときに、どちらが正しいかを簡単には判断できなくなる。そのときに、その人なりの「合理性」がどうやって生まれて来たんだろうか、ということを考えていく、ということにまさにこのメディアで取り組んで行きたいと考えているので、今のお話はとても参考になります。

今度は、森坂さんと異なる意見を持っている人たちの考えの背景にある、その人たちが大切にしたり重視している価値観が何だと思うかを教えてください

まず怒っている女性については、私たちは見下される存在じゃない、女性だってできるんだ、という考えを持っていると思います。

心の中で見下す感情を持つことに対しても怒る人たちは、過去にレイプされるとかの強烈に蹂躙された経験を持つんじゃないかな、と思います。その、自分自身が男性に蹂躙されたというネガティブなインパクトが人生における強烈な原体験になっているからこそ、女性は蹂躙されていい存在ではない、平等なんだ、とより強く思うんじゃないかな、と思います。

――ここでの「蹂躙」とはどういうことを想定されているのでしょう。

何の許可もなしに性的に弄ばれる、というようなことですね。その最たるものが性暴力だと思います。程度が低いもの、というと個々人の感じ方次第でもあるので語弊があるかもですが、学校で男子にブスって言われるとか、見下される、外見を馬鹿にされる、胸を触られるとかのイヤがらせというレベルのものも「蹂躙」に含まれると思います。

ちょっとぐらいなら気にしないという人もいれば、ちょっと触れられるだけでブチギレる人もいるので、このあたりは難しいところですけれど。

ほかには、野望を実現するためのセレクションで性別による機会の不均等のせいでチャンスをつかめない、性別が原因で昇進できない、とかもある意味で「蹂躙」に入ると思います。

――ほかに、森坂さんに対する反対意見のパターンとして、女性の権利を強く擁護する人、がありましたが、この人たちの背景にある価値観はどんなものだと思いますか?

明らかに正義感の強い人たちですよね。背景は、なんでしょうね、彼らも蹂躙された経験があるのかもしれない。

性暴力を受けたのかもしれないし、先輩後輩だったり親からの、上下関係に基づく何かしらの暴力を受けたのかもしれない。男性の場合は、蹂躙を受けた理由が男性であることには直接は繋がってないと思いますが、もしかしたら女性に差別されてきた、ということもあるかもしれませんが…。とにかく、その男性自体が何かしらの「蹂躙」を受けてきたからこそ、守ってあげようと思うのかな、と思います。

ものすごい屁理屈こねる人とか、悪い意味ではなくても、少しでも定義がずれてしまうと怒り心頭になる人っているじゃないですか。そういうのも、背景には蹂躙されたことによる歪みがあるのではないかな、と思うんですよ。

――女性に差別されてきたから、男性が女性を守らなきゃと思うというのは、どういう意味でしょうか。

女性からの差別を受けてきた、というのはもしかしたらあてはまらないかもですが、その男性に、自分なりの正義感を抱くようになる何かしらの出来事を経験するというバックグラウンドがある気がします。そうすると、その正義感に照らして、女性差別のようなものにも敏感になる。

――ここでの「正義感」ってなんなんでしょうね。

私自身が正義感に動かされたときのことを振り返ると、承認欲求みたいなのはありましたね。昔、所属していたコミュニティで友人がトラブルに巻き込まれている時に、その人を守るためにSNSでコメントをしている時「友人をかばってる俺、ロジカルに議論していて格好良い」みたいなことは思っていました。

あとは、大切な友達が所属するコミュニティの問題だったからこそ自分が動いた、というのもあります。身近な人が正義感を持って取り組んでいることだったから擁護したんです。

だから、自分自身としては女性を軽んずるような意見に声を上げて反論しようとは思わなくても、身近に女性のことをめちゃくちゃ大切にしている人がいたら、私も声を大にしてその意見を繰り返しているかもしれないですね。

「世の中の一般常識として「男女の関係性はフラットであるべきだ」ということになっていますが、その一般常識は誰が決めたんだろう? って疑問に思うんです。」

――先ほど森坂さんの考え方や価値観が形成された背景というところで、家族・学校・部活という3つの視点からまとめてくださいましたけど、時間が経つにつれて周囲の価値観が変わるということはありましたか?

例えば、子供のときは「女なんかダメだ」と言ってた友人がだんだん言わなくなった、とか、昔は女性差別していたけれど最近は擁護するようになった、あるいはその逆とか。高校と大学で文化が全く異なる、ということもあったりすると思うんですが、いかがでしょう。

時代・年代の変化なのか、所属するコミュニティの変化なのかがちょっとわからないんですが、私が高校生時代を過ごしたコミュニティよりも、今の時代にここで出会う女性の方が野心が大きい気がします。

バリバリ活躍したいという欲求を強く感じます。成り上がってやる、自分が仕事を成功させてやる、名を残してやる、とい野望を持っている人が凄く増えているように感じます。

――男性の友人と比較するといかがでしょう。20代半ばくらいだと、高校時代よりも今のほうが正義感のある男性が目立つ気がします。野望に関しても、高校時代の友人はそんなに野望を持っていなかったけれど、現在の周囲の友人は野望が大きいとかはありませんか?

それはもちろんありますね。なにしろ、所属しているコミュニティが違いすぎますからね。 

ただ、男性の場合は、もともと野望が大きかったけど最近はしぼんでいく人が増えたように思います。昔は「ビッグになる」というのが上位にある価値観だと思っていたんですけど、最近は「もうちょっと自分に合った働き方があるよね」「企業で働くのも一つの生き方だよね」みたいなものを感じます。

金持ちになりたい、成功者になりたい、みたいな野望をもう誰も持っていなくて。だから「起業家」という存在ももはや前時代的かもしれない、と思うぐらい。高校時代の友人にももちろん「ビッグになりたい」という思いはあったと思いますが、現実にそうなっている人は少ない。だからと言って上下関係があるわけでもなくて、幸せで、満足しているんです。

いわゆるマイルドヤンキーって若い時は「ビッグになる」とか「偉くなりたい」って言うじゃないですか。そういうのも、歳をとるにつれて落ち着いていくけれど、それはそれでいいんじゃないかなと思うんですよ。下に見ているわけではなくて、一つの生き方として素晴らしいと思うんです。

そうすると、起業とか、知的な努力だとか、その追求の仕方が前時代的なものにみえて、それを追求しているのって時代に取り残されているんじゃないかなって感じることもあって。価値観の変化というと、こういうことを感じますね。

――ありがとうございます。森坂さんと周囲の人の価値観の変遷について彼・彼女ら自身の育っていくなかでの年代的な変化であったり、その周囲の価値観がどのように変わっていったか、ということを想像出来ますか?

森元首相タイプ、女性を擁護する男性タイプ、森元首相のようにオープンにしてしまう人に反論するタイプ、内心で思っているだけで許せないというタイプと4パターンありますけれど、それぞれどんなコミュニティで育ってきたんでしょう。

先ほどの仮説では、森さんに強く反対するような人は男性に蹂躙されて育ってきた、と言いましたが、私の知人で表立って声を上げている女性には女子校出身の人もいます。女子校出身だから、学生時代に男性に蹂躙された経験はないと思うんですよね。だからなんでなんだろう、とは思います。

人の価値観を形成するうえでは、小中高までがかなり重要だと思うんですよね。遅くとも大学の、20歳から22歳くらいまでの経験でしょう。

――性別が原因で昇進できなかった、という「蹂躙」は社会に出てからの経験になると思いますが、それでもやはり学生時代の方が重要なんでしょうか。

社会人になって、自分が昇進するかどうか、という年代で「なんで男ばっかり」と思っているということは、既に持っている価値観が反映された結果だと思うんですよね。「私はもうこれでいい」とか、「キャバクラ要員でいい」と思っていたら男だけが昇進することにも反発を覚えないでしょう。「性別に関係なく評価されるべき」という価値観で育ってきたのに現実はそうではないから怒るんだと思います。

もちろん今ある現実は理想的なものではないと思いますよ。女性のキャリアの選択肢は多い方が良いし、男女は平等であるべきだと思います。でも事実として、現実の社会ってそういうところがあるじゃないですか。

それに、突き詰めて考えると、「本当に平等であることは良いことなのか?」と思うこともあります。世の中の一般常識として「男女の関係性はフラットであるべきだ」ということになっていますが、その一般常識は誰が決めたんだろう?って疑問に思うんです。

例えば、現在の日本の課題として、少子高齢化って凄く重要なイシューじゃないですか。だから、この課題に取り組むためには、女性の昇進は少ない方がいいかもしれないし、逆に女性の昇進が増えた方がいいのかもしれない。「フラットであるべき」という理想論にすがりつくことも一つの方法なんでょうが、一般常識にとらわれず、イシュードリブンで考えるということもするべきなんじゃないかな、と思ったりもします。

――このメディアの目的は、例えば一般常識は平等を大切にしているけど、平等をそこまで重視しない考え方だって悪いものではないよね、そういう人生を送ってきたのであればそういうふうに考えるのもわかるよね、というスタンスでお話しを伺っていくことなので、そういう意味でもとても面白い点をお話しいただけたと思います。

仕事をバリバリ頑張りたい人が、社会の不条理な制約によって機会を限定されているというのはもったいないことだと思うんですよ。そういう意味で、その人にとっては平等な世界の方がいいんだろうな、と思います。

先ほどもお話ししたとおり、私は結果主義なので、能力が高い人が良い業績をうみだす、という結果を出すことをリスペクトしています。だから、女性だから、女性を昇進させなければいけないから、と下駄を履かせてもらうようなことはどうなのか、と思います。

その一方で、現時点で見下されすぎているから昇進できないから下駄を履かせる必要がある、というのはどうなのかな、と思ったりもします。

私は女性じゃないので、女性がどれだけ見下されてるのか、ということが本当にはわかりません。例えば、結果として管理職の97%が男性である、というような数字が出ているときに、そこに性別との因果関係があるのか、とかもわかりませんし。あとは、女性は、恋愛に発展してしまうから男性と師弟関係が結びづらい、みたいな話を聞いたことがあるんですが、これもどこまで本当かことなのかわからないし。わからないことだらけなんですよね。

わからないことばかりなので、「平等を実現しよう、そのために声を上げよう」とまでは思わないんです。どちらかといえば平等な方がいいんじゃない、くらいの温度感ですね。

最後に、ちょっと関係ないのかもしれませんが、女性の会社とか、社会での振る舞いと、セクシャルな場面での振る舞いに関して疑問を感じることがあるなぁ、ということがふと思い浮かんだのでお話ししますね。

偏見かもしれませんが、女性にMの人が多くて、男性の方がSの人が多いと思うんです。これって、男性が主、女性が従という主従関係があるわけじゃないですか。セクシャルな場面でそういう関係を望むことと、社会で昇進を望むことは矛盾しないのかなぁ、と純粋に疑問です。

急に何の話をしているんだ、と思われるかもですが、友人達と話していても、傾向としてMの女性は多いと思うんですよね。フェミニストの人も性的な場面ではMだったりしますし。

あとは、女性であることを武器にして成り上がる人も一定数いるじゃないですか。彼女たちは媚びてるのか、内心では見下してるのかわからないですが、あくまでも男性を上とみなしているからこそ成り上がるために女性であることを活用している。そこに矛盾を感じて、どうしても納得できないんですよね。

自分の中で納得して、折り合いをつけられないと頑張れないじゃないですか。他者には理解されなくとも、自分の中でロジックが形成されて、納得しているからこそ、他者にもそれを投影して他者も同じようなロジックで納得することを求めるんだと思うんですが、そもそもの言動に矛盾があり、一貫性がないと、どうやって納得しているんだろうなぁ、と不思議です。少なくとも私は一貫性を求めてしまって納得できないので。

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